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12月 17
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今日は、Coriolanusを見に行って来た。Greg Hicksの演技は、良かったが、何かしっくりこないプロダクションだった。バラバラって感じ。それは、たぶん、私が日本人だからだろう。
設定が日本なのである。衣装も「着物もどき」に「刀もどき」。。あくまでもどきであり、私はこの「もどき」が気に入らない。やるならちゃんとして欲しい。 Virgiliaなんて、着物の着方がだらしなくて、着崩れている上に、胸がはだけているから、まるで遊郭の女みたい。「お〜い、なんちゅう演出だ!」って感じ。あれじゃ、強く絶大な影響力を持つVolumniaと対照的な「おとなしい貞淑な妻」という役と全く不一致だ。それとも、新たな解釈か?????それにしても、「何故?」「ローマと日本どう関係するの?」とまず思ってしまった。
Assistant Director のTiffany Watt-Smith によれば、Coriolanus の時代のローマは平和な帝国ローマではなく、戦争が日常であり、貧しく、飢饉があり、市民が飢えている。そして、武力が中心の世の中で「名誉」「discipline」「武術」が価値観の基準であり、次に何が起こるか分からない「state of crisis」の時代である。そして、それは、正に日本の戦国時代の「侍」の世界と一致するからであるという理屈だが、私は、そのコンセプトは理解したが、プロダクションとしては、納得しなかった。どうしてかというと、もし、戦国時代の日本とCoriolanusの時代が一致するなら、徹底して、その世界を舞台の上に描ききって欲しい。例えば、黒澤明がマクベスを「蜘蛛の城」で、リア王を「乱」で描いたような世界を舞台に繰り広げて欲しい。ところが、このプロダクションでは、設定やデザインや演出が曖昧で、徹底していない。だから、作品に説得力がない。
演劇は虚構の空間だ。虚構の世界を作り出すには、一貫したコンセプトが必要だ。それは、いかに現実的な世界を、舞台装置や小道具を使って作るかではない。裸舞台だって、説得力のある虚構の「世界」を作り出すことは可能だ。私が言いたいのは、一貫したコンセプトのもの、いかに説得力のある「虚構の世界」を舞台上に繰り広げられるかが、良い演出家の腕だと思う。もし、それが出来ていなければ、いかに現実的な立派な舞台も、一瞬にして「嘘もの」になってしまう。反対に、コンセプトがしっかりしたプロダクションなら、何もない裸舞台が、観客にとって「ローマ」にも「日本」にもなり得るのである。
そして、観客は、役者と物質的な「空間」と「時間」を実際に「共有する」。つまり劇場という「虚構の世界」で起こっていることを、観客として目の前で実際に「体験する」のだ。そして、演劇は「体験」であるが故、非常にパワフルな体験になり得る。また、演劇は「儚い」虚構の世界である。言い換えれば、演劇は、実際の生活同様、全く同じ瞬間は、記憶に残る以外は、もう二度と取り返すことが出来ない。だから演劇は、流動的で「儚い」ものである。そして、私達人間が全てが「儚い」存在であると同様、その儚さゆえの「美」と何とも言えない「悲しさ」がそこに存在する。その一瞬しか無いから取り返しはつかない、緊張感もある。あまりにも有名な台詞だが、シェイクスピアが、
All the world’s a stage,
And all the men and women merely players
今日は、○ェーンが私がイギリスに帰ってきた「お祝い?!」に食事と演劇をご招待してくれたので、久しぶりに演劇に行きました。すっごく楽しかった。時差ボケで、早ければ7時、8時、遅くても夜9時には寝るという「お子ちゃま生活」をしているので、起きていられるか心配だったけど、楽しい演劇とカプチーノのお陰で大丈夫でした。
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